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【父の日に起こった悲しい事件】横須賀線列車爆破事件の犯人 若松善紀(純多摩良樹)とは [列車爆破事件]

1968年に起こった横須賀列車爆破事件で多くの犠牲者が出て、1人が亡くなりました。
なぜ犯人はこんな残酷な事件を起こしたのでしょうか?
事件の詳細をご存じない方は先にこちらをご覧ください。
日本全国連続列車爆破テロ!?横須賀線 列車爆破事件の真相 

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※出典:http://jikenshi.web.fc2.com/newpage230.htm

今回は横須賀線列車爆破事件の犯人である若松善紀について紹介したいと思います。


と、その前に
 

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1943年8月10日
若松善紀は山形県尾花沢市大字野黒沢にて3男2女の末っ子として生まれました。

父親はトラックの運転手をしていましたが、1944年11月に
2度目の戦争招集を受けフィリピンへと渡りました。
そして、翌年の1945年3月17日、レイテ島カンギマット山で戦死してしまいました。
享年35歳 陸軍軍曹でした。

母親は36歳で戦争未亡人となり、自身で田畑を耕す評判の働き者だったといいます。

1947年3月
東京から来た母娘が若松家の物置小屋を借りて暮らし始めました。
善紀とこの娘は同い年ということもありすぐに仲良くなりました。
この娘の父親は東京で大工をしていたのだが、窃盗事件を起こしてしまい
刑務所に服役していたのです。そこでこの父親の実家である
尾花沢市野黒沢に母娘で帰ってきたのですが向かい入れてもらえず、
若松家に転がり込んできたというのです。
その後、服役中のこの娘の父親は獄中で病死してしまいましたが、
この娘は父親が服役していたことも死んだことも聞かされずにいました。

1950年3月
この母娘は横浜へと引っ越し、亡き夫の知り合いの大工と再婚をしました。
同年4月

善紀は小中と温和な性格で友達も多く、手先が器用だったといいます。
成績も上から数えた方が早く、本人も進学を希望していました。
将来は船舶の無線通信士か汽車電車の運転士になりたいと思っていたのですが、
父親がいないことを理由に高校進学を断念してしまいました。

結局中学卒業と同時に山形県錦町の指物大工に弟子入りをしました。
この時の仕事に対する姿勢もまじめで、手先も器用で物覚えもよかったので
将来すごい指物大工になると思われたのですが、善紀としては
どうしても高校に行きたいと思い親方にも相談していましたが、
反対されたこともあり7月の休みに自宅に帰ったまま戻りませんでした。

その後も家族に高校進学を相談したのですが、兄弟は同情や援助をしてくれようと
するものの、母親は一切認めず、善紀はそのまま高校進学を諦めてしまいました。

結局、尾花沢で1ヶ月程建設業の仕事をし、1960年8月に東京で就職口を見つけました。
就職先は東京都保谷市(現 西東京市)にある工務店で、親方は同郷の人でした。
そこで見たものは木材をノミとカンナで造る今までの大工とは違い、
鉄骨にコンクリートを流し込むという新しい大工の姿でした。

この東京で新しい大工として生きていく決心をした17歳の善紀は、
3年契約の見習いで、衣食住は親方が面倒を見てくれて月に5千円〜1万円の小遣い
という生活送っていました。
その後も仕事にのめり込み、暇さえあれば設計図を見たり、
機械をいじったりして過ごしていました。

1963年8月
見習い期間が終了し、20歳になったこともあり御礼奉公を免除され、
月給4万円で一人前の大工として採用されました。

1964年1月
工務店を出て、新宿区西落合のアパートで一人暮らしをはじめました。
4畳半のひと間で家賃は6,000円でした。善紀は2級建築士の資格を取るための
勉強部屋としてこの部屋を借りたのでした。

当時は東京オリンピックも間近であちこちで建築が行なわれ、
職人は忙しく稼いでいました。

オリンピックも終わり落ち着いた頃、善紀はこのアパートで
先輩の弟と同居をすることになりました。
1ヶ月で同居は終わりましたが、同居人はすぐ近くのアパートで暮らし始めたので、
その後もお互いのアパートを行き来する関係が続きました。

1967年2月
善紀は17年ぶりになる幼馴染みと再開することになりました。
その幼馴染みとは山形の若松家の物置小屋に転がり込んできていた
同い年の女の子でした。
以前からこの娘の母親と毎年年賀状のやり取りをしていたですが、
この年の年賀状には「娘が会いたがっているから是非いらっしゃい」
と書かれており、善紀は連絡を取ることにしました。
彼女は母親と横浜市戸塚区に住んでいました。

2月16日 彼女と会って、豊島園でデートをした後、
彼女が「部屋が見たい」と言ったので部屋に連れて行き、
その日の夕方、東京駅13番ホームで横須賀線に乗る彼女を見送りました。
その日は手を握ることもなかったとのことです。

そして数日後、約束はなかったのですが、彼女は善紀の部屋の前で
帰りを待っていました。そのまま部屋で一緒に夕食を食べ、
また東京駅13番ホームで彼女を見送りました。
その後も何度かこのような形で会うことがありました。

3月10日 いつものように会っていた彼女ですが、
この日は最終電車に間に合わなくなってしまい、初めてアパートに
泊まることになりました。そしてその日初めて結ばれ、
結婚することを誓い合いました。
2人の気持ちを形にするため誓約書まで作り署名と血判をたのです。

それから2人は同棲をはじめました。

4月16日 わずか1ヶ月あまりで彼女はアパートを飛び出してしまいました。
もちろん善紀が嫌いになったのではなく、いろいろな重圧に
耐えられなくなったというのです。

一つは善紀の母親です。
善紀の母親は彼女との結婚に猛反対をし、彼女の父親が刑務所で死んだことや
その血を引いている彼女を罵倒する善紀宛の手紙を彼女が読んでしまい、
初めて実の父のことを知りショックを受けました。

そしてもう一つは彼女の両親です。
彼女は5年前の18歳の時に両親のために好きでもない人と結婚をしていたのです。
その両親はもちろん彼女が善紀と結婚することには猛反対をし、
彼女自身も両親を裏切ってまで善紀と一緒になろうとは思えなかったのです。

それでも、彼女は善紀と継続的に会っていました。
そんなおりに、彼女は善紀の友人に会いました。
その友人とは善紀と1ヶ月程同居し、近くのアパートに住んでいる男でした。
彼女はこの友人に善紀のことを相談しているうちに仲良くなっていったのです。

このような状況が善紀には面白くなく、また彼女に対しての気持ちも
さらに強くなっていきました。

この状況から逃れるため、善紀は引越しすることに決めました。
もちろん彼女と一緒に住むつもりで日野市の一戸建てを借りて、
家具や電化製品も全て揃えました。

しかし、彼女は善紀の引越しには気乗りせず、引越し前日まで
むすっとしていました。
とうとう善紀は堪忍袋の緒が切れて彼女をアパートから追い出してしまいました。

しかし既に深夜を回っており、アパートを出た彼女は行く場所もなく、
友人のアパートに行き泊まってしまいました。

善紀はそのまま一人で引越しをし、工務店で友人宅に彼女が泊まったことを
知りました。そして、そのままその友人と彼女は付き合うようになてしまいました。

10月16日 善紀は7年勤めた工務店を辞め川崎の工務店へと転職しました。
10月26日 隣に住んでいた夫婦が新婚旅行で行った名古屋土産として「鯱最中」を
もらい、食べた後も箱は捨てずにとっておきました。
11月   友人のアパートを訪ね、彼女を喫茶店で一緒に暮らそうと説得したが
断られました。

1968年2月
善紀はこの頃を最後に、彼女のことを諦め会いにいくのをやめました。

3月 鵠沼海岸の工事現場で働き4個の三方継手を入手し火薬を詰めました。
3個は爆破をさせてみて、その威力を確認していました。
そして火薬量が一番多い1個を自宅で保管することにしました。

6月16日(事件当日)
当時三田のマンションが工事現場となっており日野から通っていました。
この日は朝から大雨で、すぐに止まないと判断すると、
仕事は休みになるのでベッドにもぐっていました。

テレビで「今日は父の日です」と言っていたのが気に食わず、
善紀は「なにが父の日だ。自分には父親がいないために高校へ進むこともできず、
無線通信士にも機関士にもなれなかった」と思いながら寝ました。

そして目が覚めた時には午前10時で朝食の準備をはじめました。
しかし、この日が16日の日曜日というのがまた気に食わなかったのです。
去年の2月16日に彼女と初めてデートをして、今年の4月16日に彼女は
アパートを出て行きました。そして以前の工務店を辞めたのが10月16日。

彼女は新宿のアパートにも日曜日に来ることが多かったことと、
友人も雨のために仕事が休みだと考え、この日に彼女は友人に会いにいくと
思ったら、ムシャクシャしはじめ、食事の準備も途中でやめ
食堂に食べに行きました。

そこで善紀は思いついたのです、
「横須賀線がなければいいんだろう!?」

そう思った善紀は自宅に戻り、茶箪笥にしまってある「鯱最中」の箱を
取り出し、中に火薬が詰まっている三方継手を確認し、時限爆弾の製作に
取りかかりました。

3時間30分に爆発するようにタイムスイッチをセットし、
自宅を出て東京駅に向かいました。
13:40に東京駅に着き、13:45発の横須賀線の車両の網棚に新聞に包んだ
時限爆弾を置いて、すぐに引き返しました。

そして、その電車は時間通りに発車し、終点の横須賀駅で15:04に折り返し
15:28爆破事件が起こったのです。

その日の夜のニュースで善紀は初めて負傷者が出たことを知り、
翌日の新聞で死者が出たことをしり大変なことをしてしまったと気付きました。

その後逮捕されてから、1971年に最高裁で死刑が確定し、
1975年12月5日 東京拘置所で死刑が執行されました。 享年32歳でした。

逮捕された若松はキリスト教に歓心を持ち、
その後、純多摩良樹(すみたまよしき)というペンネームで
詩をうたうようになっていました。

【ハ゛ーケ゛ンフ゛ック】死に至る罪 純多摩良樹歌集


とても悲しい人生と悲しい事件です。
善紀の犯行は決して許されるものではありませんが、
なぜここまで不器用な生き方になってしまったのか、
どうすることもできなかったのか、考えさせられました。


まだ事件の詳細をご存じない方は、こちらをご覧ください。
日本全国連続列車爆破テロ!?横須賀線 列車爆破事件の真相 
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日本全国連続列車爆破テロ!?横須賀線 列車爆破事件の真相 【父の日に起こった悲しい事件】 [列車爆破事件]

1968年に起こった横須賀線列車爆破事件で多くの犠牲者が出て、1人が亡くなりました。
どのようにしてこの事件が起こり、犯人の目的はなんだったのか・・・。

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※出典:http://buzznews.blog.so-net.ne.jp/archive/201405-1

今回は実際に起きた列車爆破事件の真相について紹介をしたいと思います。

と、その前に
 

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1968年 6月16日
東京〜久里浜間を走る国鉄(現JR)横須賀線の上り電車で事件が起きました。

この日は父の日の日曜日でした。
雨の休日ではあったが、それでも多くの家族連れが乗車しており、
車内は和やかな雰囲気でした。

この列車は終点の横渚駅を折り返してきた10両編成で、
6両目に乗り合わせていたのは63名の乗客でしたが、
網棚に置いてあった新聞紙に包まれた物体に気をとめる人はいませんでした。

東京駅と向かう列車が北鎌倉駅を出発し、隣駅の大船駅に到着する200m程手前で
列車内に轟音が響き、白い煙が舞い上がりました!

車両の天井に張られていた天板や合金版、窓ガラスが飛び散り、
座席が7個破壊されました。

乗り合わせていた乗客は破壊された物の破片や、爆発物の鉄片を浴び、
その場にバタバタと倒れ込んでいきました。
重傷者が7名と軽傷者が28名出て、爆発物の真下に座っていた30歳の
男性会社員は脳挫滅により死亡してしまいました。

事件翌日の新聞紙面には、悲惨な事件の様子とともに、亡くなった男性の兄による
「残された妻子をどうしてくれるんだ。犯人も人の子で血も涙もあるなら、
この妻と赤ん坊の泣き声を聞いてもらいたい」
という悲痛な叫びが掲載されていたといいます。

神奈川県警は即座に捜査を開始しました。
爆破のあった網棚の下の座席から、紙箱の破片・赤いビニールテープ・
単1の1.5V乾電池4個・20cm程のコード・タイムスイッチのゼンマイと歯車など
が発見されました。

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※出典:http://jikenshi.web.fc2.com/newpage230.htm

これらの証拠品から時限装置をつけていたことは明らかで、
爆発物はダイナマイトか、塩素酸カリと硫黄を混合した粉末系火薬と
推定されました。

事件翌日の6月17日に神奈川県警の要請により警察庁は関東管区警察局・警視庁・
兵庫・静岡・千葉・埼玉県警の捜査担当官と科学警察爆発物専門官を大船署に招集し
緊急会議を開きました。
ここで、広域捜査体制をとることが決まり、広域重要「107号事件」に指定され、
捜査員述べ25,000人を動員する全国的な捜査態勢が組まれました。

なぜこの事件にここまでの全国的な捜査を行なうことになったかというと、
当時、1962年の「草加次郎事件」以来数年に渡り、交通機関を狙った爆破事件が
全国的に起こっており、他の事件との関連性も含めて捜査をしていたからです。

現場検証から、爆弾が包まれていた新聞紙が4月17日付朝刊
「毎日新聞」多摩版であることが判明しました。
この新聞は西多摩・南多摩郡・八王子・府中・立川・町田・日野市など
十数万世帯に配達されていました。
さらに、新聞は印刷の時に輪転機のクセによる「印刷ズレ」が生じることから、
その特徴を割り出し多摩版のなかでも八王子・立川・日野方面に配達されているもの
と判明しました。

科学警察研究所の鑑定によると、爆発した火薬はニトロセルロースと
ニトログリセリンを主成分とし、日本では猟用散弾の発射薬として市販されている
ことが分かりました。つまり、猟銃の所持許可を持っている者は鉄砲火薬店で
購入できることが判明しました。

さらに、火薬を詰めていた鋳物の復元に成功し、出所が判明しました。
これはガスや水道工事などに使う特殊な「継ぎ手」で、大阪府岸和田市の
日本鋼管継手株式会社の製品だと判明しました。

6月19日 爆破装置を入れていた箱が判明しました。
現場に残っていたボール紙を繋ぎ合わせると裏面に「門前町二 みすゞ総本店」と
木版のような印刷がされていたのです。この店は名古屋市中区門前町にある
菓子製造販売「みすゞ総本店」で箱は「鯱最中(しゃちもなか)」という商品で
愛知県内のみの販売だということでした。

6月23日 起爆用に使用していた乾電池ホルダーがクラウン社製であることが判明し、
このホルダーはテープレコーダーに使用されており7,500台販売された物でした。
さらに「OKMI」という検査マークがついており、この検査マークがついているのは
500台〜1,000台しかないというのです。
さらに、この商品には「愛用者カード」が入っていて、郵送するとボールペンが贈呈
されるというもので、クラウン社には郵送した人の名前と住所が登録されていました。

捜査員総出で捜査を続け、11月にある一人の有力容疑者に辿り着きました。
その容疑者は
・1966年11月2日に猟銃所持許可を受け、水平二連散弾銃を所持
・1966年11月23日に新宿区のサトミ銃砲店でSS火薬250g購入
・1968年3月に立川市の三進小銃器営業所でSSか約250g購入
・1968年1月〜6月「毎日新聞」を定期購読
・1968年6月16日(事件当日)のアリバイが曖昧
・以前住んでいた新宿区のアパートでタイムスイッチを使用
・1968年4月に働いていた工事現場で三方継手が入手可能
・鵠沼海岸で水道管に火薬を詰め、二回爆発をさせている
・隣に済む夫婦が1967年10月24日に「鯱最中」を購入し容疑者に渡した

以上の条件から容疑者は日野市に住む大工である若松善紀と判断し、
11月9日午前7時、捜査本部は若松善紀に任意出頭を求め、
千代田区九段北にある工事現場宿舎で寝ていたところを捜査本部に連行されました。

はじめは否認していたものの、午後から自供を少しずつ始め、夕方6時に逮捕されました。 
取り調べ時に若松善紀は「草加次郎を尊敬している。草加次郎は何度も爆発物を仕掛けて
成功したが、捕まらなかった。自分は草加次郎をまねてやったが、捕まってしまった。
捕まらなかった草加次郎は私よりもえらい。しかし、草加次郎の事件がなかったら、
こんなことは考えつかなかったから、彼を憎いとも思っている」と供述しました。

犯行の動機は「結婚を約束しておきながら破局した、元恋人に対するうっ憤を晴らすため」
と語っていますが、若松善紀には実はさらに深い闇ありました・・・。

若松善紀についてはこちらをご覧ください。
横須賀線列車爆破事件の犯人 若松善紀(純多摩良樹)とは
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